ややや

頭の中身を取り出して虫干し

ねむれないよるに

Googleで「死にたい」と検索すると相談ダイヤルが表示される。

では「生きていたくない」だとどうか。

結果は同じだった。

 

打ち込んだ当人としては全く違うから、言葉は難しいと思う。側から見ればこの精神状態は同じであろうか。Googleでなく人間から見ても。

まず希死念慮はない。痛いことも苦しいことも嫌いだ。周囲に面倒ごとを背負わせるのも全く本意ではない。そして「〜〜したい」という積極的な欲求が薄い。

対して「〜〜したくない」という消極的欲求ばかりつのる。「働きたくない」「考えたくない」「社会に参画したくない」極め付けが「生きていたくない」。

 

時世を鑑みて"コ口ナ鬱"だろうか?と思われるかもしれない。しかし当人としては違う。もっと前から、時間をかけて熟成した答えのようなものだ。熟成よりむしろ色々が薄まってしまった状況とも感じられる。

この「生きていたくない」は今まで複数人に吐露してきた。励まされたり、同調してもらったり、様々な反応を得たが特に変わることがない。ただふと「生きていたくないな」と思う頻度が増えている。

 

生きていたくないがために起こした行動もある。まずその原因を沢山考えた。そしていつも「自分への期待がない」ところに行き着く。人生はニャンとかなる、と言うがニャンとかする気がない。ニャンとかしたい気持ちより薄ぼんやりした面倒臭さが勝つ。

遺書も書いた。死のうと思ったのではなく、スカイダイビングをすることになったのがきっかけだ。「死んでも一切責任を問いません」という旨の契約書にサインをするので、死ぬ準備はいるだろうと考えた。なにせ自分が死ぬことで周囲に面倒ごとを背負わせたくないのだ。結果死にはせず、絶景を見て「やっぱり生きていよう」と心を入れ替えもしなかった。

しかし収穫もあった。遺書を書くためには自分の死後を想像することになる。普段はあまり考えの及ばないことで、すこし愉快だった。少なからず悲しむ親族を想像すると申し訳なくはなったが、20分で仕上げられた。書き終わる頃には「みなさん私が死んでも心安らかに生きてください」とやわらかい気持ちになった。

またどうやって死ぬのが良いかを、なんとなしに考えている。決して自死ではなく、轢かれる・羅患するといった受動的死である。親族の辛さを最小限にできる方法を想像するが答えは出ない。積極的に調べることもしないので、自分の想像の限界にとどまる。そして気がつくと生活に気を取られている。

 

「生きていたくない」を今のところ生活が上回っている。生きる活動と書いて生活。生きていたくなくても活動を問題なくしている内は正常の範囲内なのだろう。正常が何かわからないが、そう思う。

 

死ぬこともままならないのなら違う答えが必要になった。(ままならないかは試していないが、面倒臭いので試さない。)考えた結果ひとつ着地点を得た。ひとまずそれを標に生活の中身を変えようとはしている。今のところ前向きだ。前が何かわからないが、恐らくそうだと思う。

 

 

とても暗く湿った、とりとめのない文章になってしまった。この内容をこの場に書く特別な意図はない。あまりにも眠れず、これを書くに至る。

目をじっと瞑るも思考がぐるぐると巡り続けとうとう1時間が経ってしまった。そこで、はじめからおしまいまでをアウトプットすることで決着をつけることにしたのだ。思考が何故かブログの文体になるタイプの人間であるためブログの形をとった。

今回は短文で簡潔に書くことを目標に書いた。普段の冗長さと比べて大分すっきり書けたのではないだろうか。頭の中の文字を吐き出したので是非すみやかに眠りにつきたい。こんな夜はしばらく御免だよ。

 

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