ややや

頭の中身を取り出して虫干し

「偉そう」は偉くないことを示す

この頃、文章を書く仕事が増えた。

お偉いがたに読まれるべく書くものから、平日昼間にカフェで駄弁っているような女性らを想定したものなど少し幅がある。予期せず始まった仕事がほとんどで慣れないし、生身の自分の人格がブレていやしないか少し心配になる。

 

そんなこんなで「私、少し前はしょうもない文章を結構書いてたはず…」と思って久しぶりにログインしてそれぞれ読んでみるとしょっぱなから赤面。なんやこいつ!!!と指さしたくなる気持ちを抑えて読んでいくと、それなりに気合いを入れて書いた覚えのあるものはそれなりに読み応えがある。というか単純にどれも長い。

中身の良し悪しを一人で語ってもしょうがない。やっぱり絵も文章も継続して書くほかないなと思った。インプットとアウトプットの繰り返し。そういう意味では最近個人的に書くものといったら、140字を長々と繋げるような投稿としみたれた日記と、くらいのもので、さっき読み返して赤面したような文章さえ書ける気がしない。絵も同じく。

 

仕事で書いた文章を目上の人に「偉そうな文体」という言葉で褒められた。果たして本当に褒められているのか合点がいかないままだが、当人がそう仰るので有り難く受け取った。確かに今の文体は「である・だ」調であることを除いても偉そうかもしれない。これは、大学で提出してきた数々のレポートや、今の仕事で書く文章において、「それっぽく」あろうとした結果なのだけれど、他の人からすると行き過ぎているのだろうか。文章を書くというのは難しい。

さて、もうすでに冗長気味ではあるが。

私は「私って表現力には自信があってェ」などとは全く思えず、いつも「なんだこいつ…」と思いながら自分の文章を延々添削している。今までに出会った中で秀逸な表現力を持つ人たちを脳裏にちらつかせては、比較もできないなと落ち込む。時たま「語彙力がある」「表現力がある」という趣旨の感想を言われると「何を言っているんだ…」と思うが、確かに今の環境で「この人の言葉は!」と感じることは基本的にない。もちろん好みの問題もあるし、内容に感嘆することは多々ある。

周りを見て焦らない状況でもっともっとと思うのは難しい。幸い、提出する文章に関しては上司がかなり詳細に赤を入れてくれるので油断はできない。面積に対する赤色の分量が減っているのを見て心の中でガッツポーズをとることもあるくらいだ。でもやっぱり私は自分のために書きたい文章を書いて、書いて、自分で推敲することをしなければ、褒められても腑に落ちず、自分一人でよくわからない誰かと比べて落ち込むことしかできないなと思った。だからまた、一人で壁打ちするようなブログを書いてみようとも。

 

ということを書くだけの文章がこれほど冗長になるのだから道は長い…。

続くかわからないし、続いても飽きてまた唐突にやめてしまうかもしれないが。よくある口語体のラフな文章以外でも馴染みよく伝わる文章が書けるようになりたいな。

 

(本人や周囲の人の目に入れば一発で私とばれる表現なので、できれば見つからないでほしい。が、むしろこれが誰にどうやって見つけられるのかというインターネットの片隅のほこりレベルのページなので思い切って。エイヤ。)