ややや

頭の中身を取り出して虫干し

中華

 

中華が食べたい。

 

深夜2時、夜勤の休憩時間、自販機にガコッと音をたてて落ちた缶コーヒーに手を伸ばしながらふと思った。プラスティック製の透明な蓋を持ち上げたその手をするりと隙間から滑り込ませ、手探りで缶を掴む。手袋越しにその温度が伝わり、手のひらから少しだけ温められた血液がまた冷たい方へ戻ってゆく。

 

まず頭に浮かんだのは天津飯だった。

ふわふわの卵の上につやつやとろりとしたあんがたっぷりと被さり、卵の黄色とあんの深い橙色のつやの組み合わせは、こがねいろを湛えておりその見た目にすでに感嘆する。こんもりとしたその頂上には緑の鮮やかなグリーンピースが彩りとしてちょこんと鎮座していて、その不自然なまでに完璧なコントラストはかえって子供じみたおもちゃのような印象を与える。

グリーンピース、そう、グリーンピースが問題なんだよな。あいつはいないと見た目が寂しいが、子供のころからどうも好かない。一つ一つは小さくて、食感も少し水気を欠いてもさっとしただけ、大した味の主張も持ち合わせていない、それだのに何故だか存在感があって無視できない。あいつがいるな、と集中できないような気がする。

でも天津飯には、そんなことはまあいいかと思えるくらい、存在感を持つ具が他にごろっと入っているのだ。白とピンクの縞模様が輝きすら感じさせる、ぷりぷりとした海老。店によっては小さい貧相なヤツが出てきて、なんだ、ちぇっ、と気持ちが冷めてしまうこともあるが、ごろっと大きな海老が数尾だけ入っている時は宝を掘り当てたような高揚すら感じる。そういう時はこっそり一尾残しておいて、最後の一口をそいつと一緒に締める。

あとはキクラゲだ。海老と並んで天津飯を盛り上げる食感担当である。どこの店でも出会えるわけではないが、幼い頃に家族と行った中華料理店で食べた天津飯で出会ってからは、キクラゲがないと物足りないと感じてしまう。黒く怪し気な見た目に反してコリコリとしたコミカルな食感はふわふわとろとろの天津飯の中でとても際立つ。

個性豊かな面々に程よい粘度のあんが絡み、全体をまとめる。蓮華を口に何度も運んでいるうちに身体はすっかり温まっている。

 

そうだ、小龍包も食べたいな。

蒸篭の蓋を取るとたちまち、真白な湯気がもわっとたちこめて、宝箱を開いた浦島太郎さながらである。白い湯気が引くとお行儀よく並んだ白い塊が揃ってこちらを見上げている。綺麗につけられた細かい皺はその頂上できゅっとまとめられ、かわいらしいツノを作っている。

蓮華にのせて箸を入れると、あっという間に澄んだ琥珀の肉汁が溢れ、一気に食欲を刺激する。しかしここで慌てて口に運ぶと痛い目をみる。かわいらしい見た目をしてはいても、その内に秘めたる熱さは攻撃的だ。箸を入れたところから、湯気を適度に逃し、頃合を見計らって口に入れる。それでもやはり余裕をもって咀嚼するにはまだ十分熱いが、はふはふと口から湯気だけを洩らしながらその熱さを楽しむのがまた良い。肉のうまみが染み出した琥珀のスープ、薄いながらももちもちとしっかりした食感をもつ皮、中に大切に閉じ込められた具、その三位が一体となって幸福感をもたらす。

一つ一つはそう小さくもなく、しっかりと食べごたえがあるけれども、ふたつ、みっつと箸が進み、熱々のうちに蒸篭は空になってしまう。

 

ああでも、青椒肉絲もいい。

そう、筍。あのしゃきしゃきと噛み心地のいい筍の細い短冊はいくらでも食べられそうな気がしてくる。やはり筍は春に食べるものというイメージが強いが、青椒肉絲に入った筍は一年中のいつでも食べたくなる。

ピーマンは緑と赤の二色、肉もあわせて全員が全員、同じ細さに切り揃えられている。白い皿に盛られると、筍の黄も合わせてとても彩り鮮やかでありながら、その細長い具の混ざり合わさった様は端整で誠実そうな印象を受ける。

ごま油の香ばしい匂いが鼻に届くと、大皿にこんもり盛られたそれらを全部ぺろりと平らげてしまいたくなる。これもまた、とろりとしたあんが具をコーティングし、野菜のしゃきしゃきと肉をいい塩梅でまとめあげている。

 

青椒肉絲と並んで思い浮かべるのは、酢豚だ。

こちらも同じくピーマンの緑と人参の橙が色鮮やかだが、たたえる雰囲気はガラリと違う。一つ一つの具は乱切りされ、ごろごろととても賑やかである。ぱりっとしたピーマン、しゃきっとした玉ねぎ、そして食べごたえの大きい豚肉。一つ一つの具を口に放り込み、顎を一生懸命動かして咀嚼するのは一苦労だが、その顎の疲れさえ嬉しい。

甘酢の優しい酸味はそれぞれの野菜の味も尊重している。酢豚に入れる具は、店や家によって様々だが、人参、玉ねぎ、ピーマンの基本が揃えばそれでいい。パイナップル入の家庭的な味も嫌いではないが、やはり店で出される王道な酢豚が食べたくなる。そしてやはり、一つ一つの具にてかてかと光沢を、肉にはもちっとした食感も与えるあんがミソである。

 

 

ここまできてふと、中華の美しさと口当たりの神秘は、あんの片栗粉にあるのではないかと思い当たる。もしそのままさらさらとした液体であればないであろう、あの艶はもうエロスと言っても良い。料理にたっぷり絡みつき、脱落することなく口まで運ばれてくると、中では舌に纏いつく。水溶き片栗粉はエロスだ。しかしながらその妖艶さとともに無邪気さや優しさを兼ね、舌だけでなく心まで包むかのようである。口の中に温かくとろりとしたそれが広がればたちまち多大なる幸福に包まれる。

 

ああそうか、片栗粉か、となにか問答の先に悟りを得たような感覚で缶コーヒーの残りを一気に煽ると、脳内に満ち充ちた中華あんの味と口内に広がる微糖の苦さの落差で現実に引き戻された。気づけば休憩時間が終わる頃だ。身体は大分温まっていた。空き缶を自販機横のゴミ箱の間抜けな口に突っ込み、ぐっと伸びをして気持ちを切り替える。

 

 

ああ、中華が食べたい。